野底マーペー

唐人墓

 石垣島は、そのすばらしい海、そしてサンゴ礁で有名です。しかし、歴史に関心がある人にとっても魅力的な島であることは確かです。

 歴史好きの心をくすぐる史跡のひとつが、唐人墓です。

 唐人墓(とうじんばか)は、中国人苦力たちの慰霊のために建立された墓地です。沖縄県石垣市の観音崎に位置します。咸豊2年(1852年)に、ロバート・バウン号事件で、中国人苦力が犠牲になり、その慰霊のために、1971年(昭和46年)に建立されたのが、この墓なのです。

 「苦力」とは、「くーりー」と読みます。中国人やインド人を中心とするアジア系の単純労働者、つまり手に職を持たない労働者たちを指す呼び名です。

 では、この中国人たちはなぜ、亡くなったのでしょうか?

 咸豊2年(1852年)、中国アモイからカリフォルニア州へ向けて、アメリカの苦力貿易船が航行していました。この苦力貿易船は、ロバート・バウン号といいました。その船内で、船長の苦力虐待を契機として暴動が発生したのです。

 船は、2月19日に石垣島の崎枝村沖合で座礁しました。このとき380人の中国人苦力が上陸したのですが、事情を知らない八重山の役人たちは彼らを収容所に収容してしまいました。収容所は、崎枝村の赤崎に建てられました。その後、監視しやすい富崎に移されました。

 ところがその後、バウン号が座礁したとの報告を受けたイギリス船2隻が石垣島に来航しました。そして富崎の収容所を砲撃したのです。さらに200人以上の武装兵士が上陸し、逃走した苦力を射殺・捕縛しました。これが3月のことです。その後、また、4月にはアメリカ船1隻が来航しました。捕縛を免れた中国人は琉球王国に保護されました。しかしそこでの収容所の衛生が悪かったのでしょう。病死や自殺、あるいは行方不明になった中国人は128名にものぼったといわれます。

 

野底マーペー

 石垣島の観光スポット、名所・旧跡、として挙げられている数々のリストを見ると、そのなかに、「野底マーペー」という、ちょっぴりユニークな名称が見つかります。

 はたしてこの「野底マーペー」とはいったいなんなのでしょうか?読み方は「のそこマーペー」です。じつは、この野底マーペーとは、山の名前なのです。

 北緯24度29分5秒、東経124度15分2秒に位置します。於茂登岳山系に属します。

 野底マーペーは、沖縄県石垣市にある山で、「野底岳」・・・読み方は「のそこだけ、」または「ぬすくだぎ」・・・と、呼ばれることもあります。明治時代の記録をみると、「ヌスクマヤーヒイ山」と、記されていることがわかります。石垣島は、北部が山がちで、南側に向かうにつれ海へ向かって平地へとなります。この野底マーペーも、石垣島の北部に位置します。西浜川の源流にあたります。

 山頂付近には、崖があります。円柱状の垂直をしています。西方から見ると、まるで人の顔をしているようにも見えます。山は、緑色火山岩や溶岩などから成っています。古第三紀始新世の野底層からなっているといいます。山全体が、スダジイという、植物の群落に覆われています。スダジイというのは、ブナ科のシイ属の植物です。別名、イタジイ、またはナガジイといいます。

 では、この「マーペー」という名前はどこから来たのでしょうか?

 この山の西の麓に、野底村という村があります。雍正10年、つまり1732年に黒島と新城島からの寄百姓が新しく作った村です。村が新設された際に、黒島では道で島を二つに分割しました。そしてこの一方が強制的に野底に移住させられたといわれています。マーペーという名前は、このときの移住者の一人である、マーペーという娘の名前から来ているといわれます。彼女は、黒島に残された恋人を忘れることができず、野底岳に登ったのです。しかし於茂登岳にさえぎられて島さえも見えませんでした。そのため絶望して山頂で石となってしまった、という伝説があるのです。